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歴史と哲学の県立熊谷図書館

 (本資料展は終了しました)

所蔵資料展示目録(平成19年度 第2回) 2007年 10月4日(木)〜12月27日(木)

盲目の学者 塙保己一 〜その偉大なる生涯〜

 彩の国の偉人として知られる塙保己一は、江戸時代後期の国学者で、全盲でありながらも大文献集『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)を編纂・出版しました。埼玉県では、平成19年度から「塙保己一の精神を受け継ぎ、障害がありながらも不屈の努力を続け社会的に顕著な活躍をしている方、又はこのような障害者のために様々な貢献をしている方」に塙保己一賞を贈ることにしました。今回は、保己一の生涯やその業績に関する資料を紹介します。
 

【リストの見方】
[図書] 書名/副書名/著者/発行所/叢書名/刊年/[所蔵館(熊谷:県立熊谷、浦和:県立浦和、久喜:県立久喜)/請求記号]
[雑誌] 記事名(特集名)/著者/誌名/巻号/発行年月/掲載ページ/[所蔵館(同上)]
「*」が付いている資料は館内利用となります。個人貸出はできません。

◆保己一の生涯

 保己一は、延享3年(1746)に武蔵国児玉郡保木野村(現本庄市)荻野家に生まれ、寅年に生まれたので寅之助と名付けられました。荻野氏は、平安時代の文学者小野篁(おののたかむら)を祖先とする旧家です。小野篁の7代後の孝泰(たかやす)は、武蔵国の国司となり、それ以来、子孫が武蔵国に居住するようになり、武蔵七党の一つでもある横山党を作りました。この子孫が鎌倉時代に荻野氏を名乗りました。保己一の父、宇兵衛は慈悲深く信仰心の厚い人だったといいます。母、きよは加美郡藤木戸村(現上里町)の出身で、この家は代々、名主を務めた家柄でした。
 保己一は、7歳の時、病気により失明し、修験者の勧めにより名を辰之助と改名しました。幼い頃から記憶力に優れており、大人に本を読んでもらうと、すべてを記憶し忘れなかったといいます。保己一12歳の時、最愛の母が病気で亡くなりました。悲しみにくれながら、目の見えない自分が身を立てるには江戸へ出るのがよいのではないかと考えるようになりました。
 宝暦10年(1760)15歳の保己一は、江戸へ出て雨冨検校(あめとみけんぎょう)の盲人一座に入門しました。千弥(せんや)と名を改め、琵琶、琴、三味線、鍼や按摩を習いました。しかし不器用でなかなか上達しません。保己一の学問に対する情熱とその才能を見抜いた雨富検校は、保己一に3年間の暇を与え、その間、面倒はみるので自分の好きな道を思い切りやってみるがいい、ただし3年たっても駄目ならば、田舎に帰るようにと話しました。保己一は学問に精を出し、萩原宗固(はぎわらそうこ)に入門し、国学・和歌を学びました。また、宗固のすすめで儒学・漢学を川島貴林(かわしまたかしげ)、律令を山岡浚明(やまおかまつあきら)、品川東禅寺の僧侶である孝首座(こうしゅそ)から医学書を学びました。さらに、萩原宗固の計らいで加茂真淵(かものまぶち)に入門し、晩年の真淵の学問に短い時間ではありましたが接することとなりました。 安永4年(1775)勾当(こうとう)に進み、雨富検校の苗字を頂き、塙姓を名乗り、名も保己一と改めました。保己一は34歳の時、『群書類従』の出版を決意しました。これは長い歳月をかけての大事業となりました。保己一は、まわりの人々からの信頼も厚く、38歳の若さで検校となりました。天明5年(1785)には水戸藩の彰考館に招かれて『源平盛衰記』の校正、続いて『大日本史』の校正にも携わりました。学者としての評判も上がり、幕府からもその力量を認められるようになりました。寛政5年(1793)国史・律令の学問所の設立を幕府に願い出て許され、番町に「和学講談所」を設立しました。保己一74歳の時、その生涯をかけた『群書類従』が完成し、文政4年(1821)保己一76歳、盲人社会の最高位である総検校となりました。そして同年9月、天命を全うしこの世を去りました。法号は和学院殿心眼智光居士。墓所は愛染院(新宿区若葉)にあります。明治44年6月1日、特旨をもって正四位を贈られました。

【伝記・物語等】

【子ども向けに書かれた資料】

【論文・研究等】

◆保己一と出版事業

 保己一は、学問をする中で貴重な書物が散逸していることを嘆きました。先人の文化を絶やすことなく後世の人々に伝えることが自分の使命だと考えた保己一は、これから学問をしたいと思う人々が、いつでもどこでも必要な書物が読めるように、書物を集めて分類し出版することを思い立ちました。こうして、一大叢書としての『群書類従』の出版を志したのです。当時の書物は、書き写して伝えられていたため、本によって内容が異なっていることがありました。後世に残す価値のある書物を集め、その上、誤りのないようにするためには、たくさんの書物を読み比べなければなりません。そのため『群書類従』の刊行には莫大なお金と長い時間がかかりました。保己一が編纂に着手してから41年という歳月を経て、『群書類従』670巻が刊行されました。また、保己一は『群書類従』を編纂する一方で、水戸光圀が編纂を始めた『大日本史』や『孝義録』の校正、『令義解(りょうのぎげ)』『蛍蝿抄(けいようしょう)』『武家名目抄(ぶけめいもくしょう)』を編纂しました。これらは、現在でも欠かすことの出来ない貴重な資料として活用されています。

【保己一が手がけた書物】

【出版事業について】

◆和学講談所の設立

 和学講談所は、寛政5年(1793)保己一によって創立された和学の研究所であり、学問を教える学校でもありました。老中の松平定信は、改革にあたり学問の奨励に力をいれていました。文教政策の一つとして和学の研究機関が欲しかった幕府にとっても和学講談所の設立は願ってもないことでした。和学講談所は、幕府の官学に準ずる機関ではありましたが、組織運営は保己一に一任されており、保己一は、ここで多くの門弟を育てました。保己一は、この和学講談所に名を付けたいと思い、松平定信にお願いしたところ、定信は「温故堂」と名付けました。「温故」とは<古きを温(たず)ねる>という意味です。たくさんの学者を輩出した和学講談所は、保己一没後、子孫に引き継がれましたが明治元年(慶応3年という説もある)に廃止となりました。和学講談所の資料は、東京大学資料編纂所に引き継がれています。

◆ヘレン・ケラーと保己一

 昭和12年(1937)米大統領の平和親書を携えたヘレン・ケラーが初来日しました。保己一が亡くなってから115年後のことでした。講演会で次のように語っています。「私は特別な思いでこの埼玉にきました。それは、私が心の支えとして、また人生の目標としてきた人物がこの埼玉出身の人だったからです。」世界の偉人と讃えられているヘレン・ケラーが心の支えとし、目標としたその人物が、塙保己一だったのです。

◆その他の展示資料

*展示した資料以外にも『温故叢誌』や『塙検校画像』『塙検校歌集』など、保己一に関連した資料を浦和図書館で所蔵しています。


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