歴史と哲学の県立熊谷図書館
所蔵資料展示目録(平成18年度 第3回) 2007 1月5日(金)〜3月22日(木)
懐徳堂と適塾をめぐる人々
江戸幕府は大坂を天領と定め、経済・商業都市とする方針を決定しました。それにより、大坂は全国の物流の集散地となり諸藩の蔵屋敷も置かれ、「天下の台所」としてその名を高くしました。
このような中で大坂には、新興町人の経済力を基盤に格式や門閥に束縛されない気風や実証の精神が育まれ、高い向学の志を持つ人々が現れました。
『懐徳堂』」はそのような人々によって生まれた学校の一つでした。1724(享保9)年、大坂の有力な五人の町人が三宅石庵を学主として招き、町人のための教育機関として設立されました。2年後には官許を得て、『大坂学問所』として半官半民体制の運営がなされています。
『懐徳堂』の学問の特色としては、朱子学的道徳を重視する一方、迷信や鬼神を否定する合理的思考があげられ、自然科学に対する関心にも大きいものがあり、『懐徳堂』が庇護した麻田剛立とその弟子たちは天文・暦学に大きな業績を残しました。
また、傘の紋書職人であった橋本宗吉は、その才能を見込まれ麻田剛立の弟子の間重富等の援助を受け、江戸の大槻玄沢のもとで蘭語を学んでいます。彼はわずか四ヶ月で四万語を習得したといわれ、帰坂の後、蘭学塾『糸漢堂』を設立し、「大坂蘭学の祖」といわれました。大阪で医学・蘭学の学校『適塾』を開いた緒方洪庵の師である中天游も『糸漢堂』で学んだ一人です。
緒方洪庵が1838(天保9)年、創設した『適塾』には、洪庵の人柄と実力を慕い全国から青年が殺到し、その門下生の数はあわせて千人に上るのではないかといわれています。自由闊達で自立を尊ぶ『塾風』のもとで学んだ人々の中からは、多くの分野で近代日本の礎を築いた人々が輩出しました。
また、洪庵は同志とともに除痘館を設立し、天然痘予防のために大きな功績を残しましたが、この事業は、後に明治政府に引き継がれました。
両校は明治の始めに閉鎖になりますが、『適塾』の教授陣は『大坂医学校』(現在の『大阪大学医学部』)設立に参加し、『懐徳堂』の蔵書は大阪大学に寄贈され『懐徳堂文庫』として知られています。
紆余曲折を経て、『適塾』と『懐徳堂』の学問の系譜は、大阪大学に受け継がれ今に至っています。
〈リストの見方〉
[ 書名/副書名/巻号/著編者/発行所/刊行年/請求記号]の順に表記
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