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【Web資料展】「古典籍・絵図に見える埼玉の河川の風景」(令和5年度)

ウェブ資料展表題

はじめに

埼玉県は荒川・利根川の二大河川をはじめ、県全体に占める河川面積の割合が全国2位の「川の国」でもあります。

昔は上武地域の国境であった利根川、埼玉県の中央を流れる荒川。どちらも古くから人びとの暮らしに深く結びついていた重要な河川で、その姿は古典籍や絵図にも数多く登場します。

本資料展では、当館所蔵資料及びデジタルライブラリー、ジャパンサーチで見られる利根川・荒川を中心とした埼玉県の河川にまつわる資料をご紹介します。

※ジャパンサーチ内ギャラリー掲載の資料は、当館の所蔵資料ではありません。資料に関するお問い合わせは、所蔵情報をご確認の上、各所蔵館へお願いいたします。

埼玉資料室ではミニ展示「埼玉の風景」を令和6年3月26日(火曜日)~5月8日(水曜日)まで開催中です。ご来館の際はこちらも併せてお楽しみください。

インデックス(リンクをクリックすると該当記事にジャンプします)

埼玉県立図書館のデジタル化資料の二次利用はリンク先のページをご確認ください。

展示紹介

展示資料のサムネイル画像をクリックすると、デジタルライブラリー掲載の大きな画像が見られます。

1 古典籍・絵図に見える埼玉の河川の風景

(1)利根川の風景

トネガワズシ

『利根川図志 第2巻』 赤松宗旦著 / 1855

『利根川図志』は、利根川流域の歴史、風俗、民間伝承、神社、仏閣、生息する動植物などを、多くの文献を駆使しながら、詩歌、俳句、数十枚に及ぶ絵図を交えて多彩に紹介した作品です。

著者の赤松宗旦は医者ですが、参考文献の引用も豊富で、利根川周辺の社寺それぞれに対する信仰の実態や行事祭礼について詳細に記録されています。また、綿密な調査・観察によって動植物や漁法について描写されており、現在でも利根川流域の民俗調査には不可欠の基礎文献とされています。柳田国男もその影響を受けているとされており、彼によって解題も書かれています。

著者が住む布川を中心とした利根川の中流・下流域について詳述された作品ですが、第2巻では埼玉県と接する現在の古河市や五霞町を描写しており、境となっていた利根川の様子を知ることができます。

参考文献

『利根川図志』(赤松宗旦著 柳田国男校訂 岩波書店 1938)

『評伝赤松宗旦 「利根川図志」が出来るまで』(川名登著 彩流社 2010)

『利根川図志』の他巻へのリンクはこちら

第1巻 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid=1416937010

第3巻 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid=1416937051

第4巻 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid=1416937077

第5巻 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid=1416937093

第6巻 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid=1416937119

ニッコウサンゴシャサンノセツボウセンワタシオフネバシエズ

『日光山御社参之節房川渡シ御船橋絵図』〔出版者不明〕 / 1842

江戸時代、江戸を防衛するために大きな河川に橋を架けずに関所を設けており、日光街道の栗橋宿と中田宿(現・茨城県古河市)とを結ぶ利根川には房川渡しと呼ばれた渡船場がありました。

その房川渡しに、将軍家の日光社参の際には臨時の船橋が築かれました。この資料は、1842年の日光社参で船橋が築かれたことを報道した瓦版です。

参考文献

『久喜市栗橋町史 第1巻 通史編』(久喜市教育委員会編 久喜市教育委員会 2015)

シモウサムサシノクニサカイオオトネガワテッキョウノズ

『下總武蔵国堺大利根川鉄橋之図』〔出版者・出版年不明〕

そんな房川渡しにも橋が築かれます。明治期に入り鉄道の敷設が始まり、明治18年に大宮~宇都宮間が開業されます。

そのため、栗橋・中田間の渡河のために利根川への架橋が必要となり、明治19年に利根川橋梁が完成します。この資料は出版年不明ですが、この当時の風景が描かれたもののようです。

参考文献

『久喜市栗橋町史 第2巻 通史編』(久喜市教育委員会編 久喜市教育委員会 2014)

(2)荒川の風景

オシメイショズエ

『忍名所図会』 洞季香斎著 / 1856

『忍名所図会』とは、天保年間(18301843)の忍城周辺の名所・旧跡の風景や事項が描かれた資料です。忍藩士である佐竹香斎は、文政8(1825)『忍名所図会』を一冊にまとめました。

これが忍藩主松平忠堯(ただたか)の目にとまり、藩士岩崎長容に増補の命がくだされ、天保6(1835)、同11(1840)2度改訂されました。埼玉県立熊谷図書館では、天保11年版の写本『忍名所図会 増補』を所蔵しています。

荒川については、33-34コマに挿絵があり、38コマに説明があります。「此川水清らかにして初夏の頃より鮎多し」や「鰻又多し」など当時の荒川で獲ることのできた魚の描写があり、漁業が盛んだったことも記されています。

参考資料

『忍名所図会』再刊 (忍名所図会編纂委員会著 行田郷土文化会 1986)

『忍名所図会』については、【WEB資料展】「『忍名所図会』を歩く」(令和3年度)で詳しく取り上げています。併せてご覧ください。

キソ メイショ ズエ

『岐蘇名所図会 3篇』 梅屋鶴子撰 / 春友亭 /1852

嘉永4年(1851)に出版された狂歌本です。「岐蘇」は「木曽路」のことで、五街道の一つである中山道を指し、その木曽路の名所を題材にした歌を梅屋鶴子,檜園梅明が選び編集したものです。挿絵は初代歌川広重(安藤広重)が描いています。

3篇では、信州塩灘より江戸日本橋までの区間が取り上げられており、10コマ目の「戸田川渡」は蕨宿から板橋宿の間(現在の埼玉県戸田市)を流れる荒川の舟渡しが描かれています。

キソジ メイショ ズエ

木曽路名所図会 巻之4』 秋里籬島著 / 1805

こちらも題名のとおり木曾路の名所を記した資料で、京都を出て近江・美濃・信濃・上野・武蔵を通り江戸に至るまでを記しています。

著者である秋里籬島は、安永9年(1780)に『都名所図会』を出版して大きな話題となり、その後「○○名所図会」と題する本が各地で競うようにして出版されました。本書はその秋里の代表作の一つでもあり、絵は京都の画工・西邨(にしむら)中和が担当しています。

巻之4では上諏訪から日本橋までの区間が取り上げられており、埼玉県内の描写があります。挿絵はありませんが62コマに「戸田川」の項目があり、「戸田川渡」についての記述があります。

参考資料

『木曽路名所図会』(秋里籬島編著 西村中和画 名著出版 1972)

『木曽路名所図会』の他巻へのリンクはこちら

巻之1 坤 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid= 1416937150

巻之1 乾 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid= 1416937135

巻之2 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid= 1416938026

巻之3 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid= 1416937192

巻之5 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid= 1416937184

巻之6 https://www.lib.pref.saitama.jp/digi/opac/switch-detail.do?bibid= 1416937168

ミツミネ キコウ ソウ

三峰紀行草』 松岡本固著 / 1808

『三峯紀行草』は、文化5年(1808)316日から24日の9日間に江戸から三峯山を往復した松岡本固による紀行文で、著者自筆の稿本です。漢語が多く中国の古事や詩句が随所に見られます。

本編には荒川や入間川など様々な埼玉の河川が登場し、「18日」の項には土橋が落ちてしまった川を何度も渡る描写が登場します。

参考資料

『大滝村誌 下』(秩父市大滝村誌編さん委員会編 秩父市 2011)

他館所蔵資料より(ジャパンサーチへリンク)

『木曽街道蕨之駅 戸田川渡』(渓斎英泉)「埼玉県立の博物館収蔵資料データベース」収録

木曽街道(中山道)の69の宿場と、起点の日本橋を描いた70枚からなる風景画のシリーズ。渓斎英泉が34図、歌川広重が46図を描いている。このうち、埼玉県内の蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄の各宿は英泉が描いた。本資料は英泉の名や版元の名が削除された後世の後摺。
船頭が長い竿を操る渡し舟に、多くの旅人が乗っている。中ほどの馬は鞍を着けている。頭上にはサギが飛んでいる。対岸には舟を待つ人々がいる。江戸時代後期の荒川の堤防や渡し場の様子をうかがうことができる。(埼玉県立川の博物館)

〈古写真でみる明治期の河川〉

戸田の渡しが行われていた蕨宿から板橋宿の間に、明治8年に戸田橋が作られました。この橋では明治後期まで渡り賃の徴取がありました。明治期に入り、河川の多い埼玉県では架橋が急務とされましたが、苦しい地方財政では困難で、戸田橋も長野県や東京都の人からの出資があって完成しました。そして、このような状況もあり、明治中葉ではまだ川船も重要な役割を果たしていました。

古写真『木橋時代の戸田橋』、『明治初期の川船』

(『目でみる埼玉百年 埼玉百年記念誌』(埼玉県編 埼玉県 1971)所収)

トダバシ

『木橋時代の戸田橋』

川船

『明治初期の川船』

2 埼玉県の治水・利水

埼玉県の河川は、肥沃な土壌を生んで作物を成長させ、古くからこの地に暮らす人々に大きな恩恵を与えてきました。

一方で、ひとたび大雨が降れば氾濫し、広い範囲で大洪水が発生する危険をはらんでいました。

そんな埼玉県では、昔から肥沃な土地を広げるための用水路掘削や洪水を防ぐための新川開削などの河川改修が行われてきました。

ここでは、治水・利水に関する資料をご紹介します。

ハニュウリョウ ノウカ スイハイ リスイ

『羽生領農家水配利水』 清水芳雄 /〔18--〕

羽生領の用水は、元々備前堀用水の最下流として、北河原用水の北方堀と南方堀により供給されていましたが、1840年に、利根川の上川俣村に圦樋を新設し、利根川より取水する独立の用水となりました。

この資料はその羽生領用水の農家ごとの水配を示した図です。

参考文献

『羽生領水利史 通史編』(羽生領用悪水路土地改良区編 1997)

ミヌマ カサイ リョウヨウスイロ レンゴウ シュクズ

『見沼葛西両用水路連合縮図』星野嘉太郎編 / 1884

この資料は、埼玉平野の二大用水路であった見沼大用水と葛西用水の両用水路流域についてはまとめた図です。

「葛西用水沿革一覧表」や当時の「見沼代用水路反別地価表」も掲載されており、当時の用水を知るうえで重要な資料です。

参考文献

『葛西用水史 通史編』(葛西用水路土地改良区編 葛西用水路土地改良区 1992)

〈明治43年の大水害〉

明治43年の8月に長く降り続いた大雨により大洪水が発生しました。荒川では、明治以降最大の出水となり、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させました。その被害は、家屋の流失1,630余戸、損壊27,000余戸、浸水家屋約8,500戸に達し、損害額3,000万円近くに及びました。

古写真『濁流に洗われる川越町の一部』、

『水害状況を報じる当時の新聞記事(忍商報 明治4395日)』

(『目でみる埼玉百年 埼玉百年記念誌』(埼玉県編 埼玉県 1971)所収)

濁流に洗われる川越町の一部

『濁流に洗われる川越町の一部』

水害状況を報じる当時の新聞記事

『水害状況を報じる当時の新聞記事

(忍商報 明治4395日)』

〈現在の埼玉県の治水〉

「川の国」である埼玉県では、継続的な河川の管理は必須で、様々な治水事業が行われています。

現在の埼玉県及び国の治水と水防災に関する計画や事業がわかる資料とウェブサイトをご紹介します。

※埼玉県立図書館デジタルライブラリーではインターネット上に公開されている県発行の刊行物(デジタル行政資料)も随時収集・公開しております。

『埼玉県砂防関係施設整備計画 Ver.1.0』(埼玉県県土整備部河川砂防課〔編〕 埼玉県県土整備部河川砂防課 2021.3)
《河川整備・水防災》(https://www.pref.saitama.lg.jp/kurashi/machi/kasen/index.html 埼玉県)
《河川情報センター》(https://www.river.or.jp/ (一財)河川情報センター)
《カワナビ》(https://www.mlit.go.jp/river/kawanavi/ 国土交通省水管理・国土保全局)

3 忍城水攻め

ここでは河川のまた違った一面を。戦国時代において大河は、武将たちの陣地を守る天然の防壁であり、武将たちの支配領域を形作る天然の国境ともなりました。一方で、武将が相手の領地を攻める際、河を上手く渡ることができれば相手への奇襲となり、また攻城の際には水攻めに用いるなど河を強力な武器とすることもできました。

水攻めは、戦国時代に用いられた河川を用いた戦法です。堤防を作って河川の水を城周辺に流し込み、城一帯を丸ごと水没させることで篭城する相手方に身動きが取れないようにし、支援や補給を絶って飢えさせ、戦意を喪失させる戦法です。

埼玉県では水攻めが用いられたとても有名な戦い、「忍城水攻め」があります。これは天正18年(1590)に起こった豊臣方の後北条方へ対する「小田原攻め」の中で、石田三成が忍城を攻める際に行われました。三成は「石田堤」と呼ばれる全長28kmにも及ぶ大きな堤防を忍城の周囲に築かせ、利根川と荒川の水を引き入れることで忍城を水没させようとしました。

その顛末については、ぜひ関連する資料をお読みください。

シンコウダン オシジョウ ノ ミズゼメ

『新講談忍城の水攻』 神田伯龍著 / 1940

神田伯龍は講談師の名跡で、この著者は5代目伯龍です。この講談が誕生した経緯について、5-6コマ目の「はしがき」に記述があります。

講談であるため、登場人物のセリフを交えた臨場感のある描写で忍城の水攻めが語られています。

オシジョウ センキ

『忍城戦記』 酒井天外著 / 1937

酒井天外は、本名を酒井惣七という熊谷市の郷土史家で、熊谷郷土会の副会長も務めた人物です。幼いころから文才に秀で、醤油醸造業を営みながら天外と号して文筆を振るいました。その他の著書に、『熊谷百物語』『熊谷薄生物語』『秋山要助伝』などがあります。

19コマに忍城水攻めのシーンが登場します。

参考

『熊谷人物事典』(日下部朝一郎編著 国書刊行会 1982)

4 埼玉県内の川にまつわるデジタル資料

国内の幅広い分野のデジタルアーカイブと連携し、多様なコンテンツをまとめて検索・閲覧・活用できるプラットフォーム「ジャパンサーチ」。

令和5年3月から「埼玉県立図書館デジタルライブラリー」を始めとする県内文化施設の4つのデータベースがジャパンサーチと連携を開始し、その所蔵するデジタル資料を一度に閲覧できるようになりました。

ここではジャパンサーチのギャラリー機能を用いて、埼玉県内文化施設の所蔵する埼玉の河川にまつわる資料をご紹介します。

ジャパンサーチ内ギャラリー「埼玉県内の川にまつわるデジタル資料」はリンク先へ

おわりに

当館デジタルライブラリーの資料から江戸~明治期を中心に埼玉県の河川の姿をご紹介しました。紹介した河川は、瀬替えが行われた場所もありますが、現在もその流れを絶えずに私たちの生活を支えています。この資料展から身近に流れる河川に関心を持っていただけると幸いです。

また、デジタル資料はインターネットにつながる場所ならどこでも利用できる資料です。実際の河川の姿を眺めながらスマートフォンやタブレットでこの資料展を楽しむなど、様々な形でデジタル資料を活用してください。

本資料展ではジャパンサーチに掲載された資料も紹介しましたが、紹介した資料はジャパンサーチに掲載されたうちのほんの一部です。国内の幅広い分野のデジタルアーカイブと連携しているため、埼玉県に絞らずに調べれば、もっとたくさんの資料と出会うことができるはずです。この資料展で河川に関する資料に興味が湧いた方は、ぜひご自分でジャパンサーチ内を検索してみてください。

参考文献

『利根川図志』(赤松宗旦著 柳田国男校訂 岩波書店 1938)

『評伝赤松宗旦 「利根川図志」が出来るまで』(川名登著 彩流社 2010)

『久喜市栗橋町史 第1巻 通史編』(久喜市教育委員会編 久喜市教育委員会 2015)

『久喜市栗橋町史 第2巻 通史編』(久喜市教育委員会編 久喜市教育委員会 2014)

『忍名所図会』再刊 (忍名所図会編纂委員会著 行田郷土文化会 1986)

『木曽路名所図会』(秋里籬島編著 西村中和画 名著出版 1972)

『大滝村誌 下』(秩父市大滝村誌編さん委員会編 秩父市 2011)

『羽生領水利史 通史編』(羽生領用悪水路土地改良区編 1997)

『葛西用水史 通史編』(葛西用水路土地改良区編 葛西用水路土地改良区 1992)

『熊谷人物事典』(日下部朝一郎編著 国書刊行会 1982)

『目でみる埼玉百年 埼玉百年記念誌』(埼玉県編 埼玉県 1971)

埼玉資料室 ミニ展示「埼玉の風景」

こちらでは当館が所蔵する紙資料で、埼玉県の風景が楽しめる資料を展示しています。Web資料展とあわせてお楽しみください。

※展示資料は貸出できません。館内でご利用ください。

開催期間

令和6年3月26日(火曜日)~5月8日(水曜日)
(図書館休館日を除く)

開催場所

埼玉県立熊谷図書館 3階埼玉資料室